2011年3月30日
震災から
19日目
富岡町でのこと
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
のちに
私たちから
『牛舎くん』
・・・と
呼ばれることになった
青い首輪をした
柴雑種を見つけ
いつものように
『おやつ食べようや』
・・・と近寄ると
木造の
倉庫みたいなところから
(この時初めて
私は
牛舎という建物の
存在を知った)
牛の鳴き声が・・・
中をのぞくと
黒毛和牛が
たくさんいました。
『この子ら~
閉じ込められとるじゃん
出してあげんと
このままじゃ
死ぬしかないじゃん!!』
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ひどい光景を
見てしまった・・・
見にゃよかった・・・
そう思いましたが
この後
私は
もっともっと
ひどい光景と
非情な現実を
見ることとなったのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
2011年4月3日
南相馬市の
路上で
‘はんがいくん’を
捕獲中
やはり
牛の鳴き声が・・・
私たちの
車の音と
私たちの
話し声に
犬も猫も
牛も豚も
一斉に鳴く・・・
震災から
20日
その頃が一番
みんなが
反応していた時期でした。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
スタンチョンと言う名の
鉄の輪っかに
首を
入れさせられたまま
【立って座る】
たった
これだけの
自由しか
与えてもらえず
飢えと脱水で
立てなくなっていた
たくさんの
ホルスタインを
発見しました。
乳牛なのに
搾乳していないから
乳房は
岩のように
ゴツゴツで
糞尿まみれになり
涙を流して
倒れている牛もいました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
牛の大きさに
恐れおののいて
牛の足元に
入って
糞尿を
かき出すこともできず
ワラを運んで
水を飲ますことしか
能のない私は
すぐに
埼玉県の
加藤牧場の
寺田牧場長に
助けを求めました。
寺田君は
休みのない
牧場の仕事を
抜け出して
飼料屋の
ハタ坊と一緒に
来てくれました。
震災から
1か月ぐらいの話です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
・・・でも結局
そこの牛たちは
のちに
畜主の同意のもと
全頭
殺処分されました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
その悲報を聞いた時は
悔しいというより
国家権力の
大きさと
自分の無能さに
ガッカリし
『もう
牛には関わるまい』
・・・と
思ったりしました。
殺処分され
もぬけの殻になった
牛舎の
横を通る・・・
それが
どれだけ
苦しかったか・・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
私から
その苦しみを
取ってくれたのが
元・家畜おたすけ隊の
谷さんで
谷さんから
依頼を受けて
牛たちのために
何かをすることが
顔見知りの牛たちを
見殺してしまった
私が
呪縛から
解き放たれる
唯一の道
・・・だったのです。
そして
谷さんが
つないでくれたのが
【産業として
価値がなくなった
牛たちに】
それでも
【生かす道を
選んでくれている】
浪江町
和牛改良友の会の
原田さんと
渡部さん。
私たちには
日常の世話は
できんけど
たまになら
何かが
できるかも知れん
『ヨシ!!
ウチの
支援者さんに
資金援助を
頼んでみよう!』
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
全国の方々から
いただいた
支援金で
配合飼料や
乾草など
牛たちの食糧を
購入し
(もちろん今後も
食糧支援は
継続しますので
なにとぞ
よろしくお願いいたします)
2013年4月28日
原田さん家族の
知恵と
みなしご救援隊
東日本男組の労力で
ついに
牛ハウスを
修繕することができました。
『ご覧ください』
福島県双葉郡浪江町
福島第一原発から
20㎞圏内で
頑張って
世話をし続ける
畜主さんと
感情豊かな
牛たち
震災から
19日目
富岡町でのこと
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
のちに
私たちから
『牛舎くん』
・・・と
呼ばれることになった
青い首輪をした
柴雑種を見つけ
いつものように
『おやつ食べようや』
・・・と近寄ると
木造の
倉庫みたいなところから
(この時初めて
私は
牛舎という建物の
存在を知った)
牛の鳴き声が・・・
中をのぞくと
黒毛和牛が
たくさんいました。
『この子ら~
閉じ込められとるじゃん
出してあげんと
このままじゃ
死ぬしかないじゃん!!』
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ひどい光景を
見てしまった・・・
見にゃよかった・・・
そう思いましたが
この後
私は
もっともっと
ひどい光景と
非情な現実を
見ることとなったのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
2011年4月3日
南相馬市の
路上で
‘はんがいくん’を
捕獲中
やはり
牛の鳴き声が・・・
私たちの
車の音と
私たちの
話し声に
犬も猫も
牛も豚も
一斉に鳴く・・・
震災から
20日
その頃が一番
みんなが
反応していた時期でした。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
スタンチョンと言う名の
鉄の輪っかに
首を
入れさせられたまま
【立って座る】
たった
これだけの
自由しか
与えてもらえず
飢えと脱水で
立てなくなっていた
たくさんの
ホルスタインを
発見しました。
乳牛なのに
搾乳していないから
乳房は
岩のように
ゴツゴツで
糞尿まみれになり
涙を流して
倒れている牛もいました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
牛の大きさに
恐れおののいて
牛の足元に
入って
糞尿を
かき出すこともできず
ワラを運んで
水を飲ますことしか
能のない私は
すぐに
埼玉県の
加藤牧場の
寺田牧場長に
助けを求めました。
寺田君は
休みのない
牧場の仕事を
抜け出して
飼料屋の
ハタ坊と一緒に
来てくれました。
震災から
1か月ぐらいの話です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
・・・でも結局
そこの牛たちは
のちに
畜主の同意のもと
全頭
殺処分されました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
その悲報を聞いた時は
悔しいというより
国家権力の
大きさと
自分の無能さに
ガッカリし
『もう
牛には関わるまい』
・・・と
思ったりしました。
殺処分され
もぬけの殻になった
牛舎の
横を通る・・・
それが
どれだけ
苦しかったか・・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
私から
その苦しみを
取ってくれたのが
元・家畜おたすけ隊の
谷さんで
谷さんから
依頼を受けて
牛たちのために
何かをすることが
顔見知りの牛たちを
見殺してしまった
私が
呪縛から
解き放たれる
唯一の道
・・・だったのです。
そして
谷さんが
つないでくれたのが
【産業として
価値がなくなった
牛たちに】
それでも
【生かす道を
選んでくれている】
浪江町
和牛改良友の会の
原田さんと
渡部さん。
私たちには
日常の世話は
できんけど
たまになら
何かが
できるかも知れん
『ヨシ!!
ウチの
支援者さんに
資金援助を
頼んでみよう!』
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
全国の方々から
いただいた
支援金で
配合飼料や
乾草など
牛たちの食糧を
購入し
(もちろん今後も
食糧支援は
継続しますので
なにとぞ
よろしくお願いいたします)
2013年4月28日
原田さん家族の
知恵と
みなしご救援隊
東日本男組の労力で
ついに
牛ハウスを
修繕することができました。
『ご覧ください』
福島県双葉郡浪江町
福島第一原発から
20㎞圏内で
頑張って
世話をし続ける
畜主さんと
感情豊かな
牛たち
前日
乾草を積み込み
SANOライダーの
バイクと・・・
道具の充電も
バッチリ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
そして
当日
朝6時に
栃木拠点に集合
車3台に
分乗して
目指すは
双葉郡浪江町
ボクたちは
自分たちの
活動に
誇りを
持っていますから♪
先日の大雨で
ぬかるんでいました。
ロールの
(白い大きい丸いやつ)
管理がいいので
干し草がカビていません。
ロールの管理
それを見ただけでも
愛情の度合いが
わかります。
こんなに
ぬかるんでいて・・・
もっと早くに
ハウスの修繕を
するべきじゃった
ここには
何度も来とるのに
そんなことにも
私は
気づかんかった・・・
ハウスの修繕を
始めている
男組たちを
撮る
専属カメラマンの
金子さん
それを撮る
一級カメラマン♪
まずは
骨組みの修繕から
こちらは
看板設置チーム
この場所に
広島の
看板屋で
制作してもらって
みなしごバスに乗せて
持って来た
自慢の看板
・・・を
取り付けます。
昨日は
ものすごい風で
ビニールが
凧状態で
うかうかしてたら
そのまま
飛ばされそうでした。
ハウスの長さは
40mぐらいあります
荒牧良くんが
脚立の上で
ビニールが
ひっかからないように
微調整
風が吹くたびに
青空に
ビニールが舞い
温暖な
瀬戸内海気候で育った
広島人には
考えられん突風です。
(今はもう
慣れましたが
最初はコケてました)
片方ずつ
仮止めをしていき
あっちに行ったり
こっちに来たり
一級カメラマンも
フル回転♪
あっ・・・
また突風じゃ
ひとつ目の
ハウスが
完成したころには
向うの方にいた
牛たちも
寄って来て
「大丈夫なんか?」
心配されとるし・・・(笑)
作業開始から
30分も経つと
一級カメラマンは
飽きてきたので
チモシー持って
牛たちと
ふれあうことに♪
留め作業が
始まったみたいで
再び現場へGO!
原田さん
早ッ!
プロみたいじゃん(笑)
ハウスのビニールは
こんな感じの
金物で
留めていくのです。
誰が考えたのか
知らんけど
素晴らしい!
牛たちが
遠くへ
移動して行きました。
移動理由は
わかりません。
リーダーが
合図をすると
一斉に
移動するのです。
作りかけの
ハウスに入っとる
カッコええね
威風堂々としとる
屋根ができたら
こんな風に
ドロドロには
ならんけぇね
これが
農家さんの
知恵の集大成
‘てるてるぼうず’
張ったばかりの
ビニールを
上から押さえる
ヒモに
この
てるてるぼうずに
くくりつけて
向う側に投げる
てるてるぼうずには
土か何かが
入っていて
重いので
逆に飛ばしやすい
こっちから
投げては
向う側の人が
それを受け取り
くくりつける
この作業を
繰り返す
この
てるてるぼうず作戦だと
大きなハウスの
屋根でも
最悪は
独りでも
固定できます。
・・・でも
見比べてください。
荒牧良君ぐらいの
身長があれば
こんな感じの
作業ですみますが
原田母さんの
身長だと
こんな感じで
これだけでも
重労働です。
若いちからが
不足している
日本の農業
ほとんどの
農作物は
おじいさん
おばあさん
・・・の
高齢者の方々が
作っています。
【一粒の米にも
多くの方の
労苦が
加わっております】
どうか
どうか
皆さま
食事の前には
しっかりと
手を合わせ
心から
感謝して
いただきましょう。
これまで
雨ざらしだったハウスに
ビニールが
張られました♪
『原田さん!
このハウスは
このままなんですか?』
「これは
このままでいいです」
理由はこれ・・・
「牛が
イタズラして
壊す」
壊したところで
体を掻く
「震災前は
毎日
ブラッシングしてもらって
痒いところなんて
なかったのに
今は
そこまで
世話ができないから
しょ~がないんだ・・・」
そっか・・・
じゃあ
少しでも
牛たちが
痒くならないように
生活環境を
整えてあげなきゃね
持って来た
乾草を下して
ついに・・・
夢の看板の
お披露目です。
夢の看板は
原田さん夫妻が
描いた
この看板を元に
作りました。
6号線から
見える場所に
設置しました。
縦900㎜横7200㎜
公募した
‘キャッチコピー’も
入っています。
コメント欄
メール
FAXなどから
送られてきた
キャッチコピーの中で
一番多かった
言葉は
【共に生きる】
次に多かった
言葉は
【牛はやさしい】
その次は
【青空】【草原】
・・・などでした。
それらを
総合して
私が
組み合わせました。
ずっと
踏み出せないでいた私に
ぴったりの言葉
『踏み出そう 今』
Yazmi2013さん
考案の
後半部分に
とても強く
惹かれたので
それを
いきなり
頭に
持ってきました。
ええ感じでしょう♪
殺処分されて
逝った
罪なき
牛や豚たちの
‘死’を
無駄ににないために
これからも
私たちは
圏内で
生きている牛たちへの
支援を
続けていきたいと
思っております。
どうか皆さま
今後とも
私たちの活動に
ご協力ください。
明日は
浪江町小丸物語です。